| パパキチ駅伝トーク 〜リレーよりは、バトンを渡すまでに日にちがかかるかなあ・・・ ということで、駅伝です!走者のパパに声援を・・・〜 |
ハンドルネーム 3児の父さん2003年4月23日 今回は、自分の子どものことを少し書かせていただきます。 長男は、この4月から小学校へ入学しました。 保育園時代は、なかなか朝決まった時間に起きることができず、起きてからもダラダラ。 遅刻しないで登校できるか心配でした。 それで、そのことを事前に何度か話しておきました。 入学式を終え、初登校日。 なんと6時前に、自分から起きてきました。自分でさっさと着替え、洗面をして6時 過ぎには、ご飯を催促。 いつもより1時間以上早く、朝食を終え、7時頃からは、名札をつけ、カバンを背負って、 早く学校へ行きたいと落ち着かない様子。 いくら何でも、まだ学校は開いていないからと、待たせておくのが大変でした。 結局、7時半過ぎ、飛び出していきました。 (我が家から、小学校までは5分足らず、なのに) 最初の日だけなのかな、と見ていたら夜も時間を考えて早く寝たり‥。 とにかく、学校へ早く行きたいという気持ちがいっぱいのようです。 そして、学校で友達と遊ぶ約束をしては、毎日出かけていくようになりました。 やっぱり節目というのは、大事なんだなーとつくづく思いました。 そして学校というところへの期待感は、すごいものなんだなーと実感しました。 以前自分が教員をやっていたことを振り返ると、小学校と中学校の違いはありますが、 新入生のこんな期待感をどれだけ大切にしていたのか、反省してしまいました。 一応、そのときの自分にできることは精一杯やっていたつもりですが。 やはり子どもも社会的なつながりができて、自立へ向かっていくのですね。 |
ハンドルネーム 吉克さんホームページ:http://www2.shogo.com/yoshikatsu/ (内容:山岳ニュース、低山日記、娘日記など) 2002年10月7日 先日は大変ご苦労様でした。@吉克 10/4の浦川町での講演ご苦労様でした。また、貴重な体験をさせていただき、ありがとうございました。感想を少し述べると。まさかあんなにたくさんのお父さんが来ているとは思っても見ませんでした。来ている夫婦は本当に仲が良くてちょっぴり羨ましくもあったりして・・・。 夫婦や父親が参加する育児や子育てなどの講演会があちこちの自治体であったらどんなに素敵なことでしょうね!今後、こういった企画がありましたら是非参加させてください。緊張するかもしれないけど・・・。是非、支援、応援させていただきます。 講演でも話したとおり、私は子育てについて特別な事をしている訳ではなく、みんながやっているから、やっているんだということもありません。 ただ子供が大好きで、父親として当たり前のこと出来る限りのことを自発的にしてきているだけです。男女共同参画社会といっても私自身ピンと来ないわけで・・・。 私は女性や男性、みんなが同じ社会的地位にいて、子育てや体の不自由な人に対し思いやりや理解があって、職場の上司や同僚、ご近所の方など周りの環境が協力し合い、毎日楽しく笑顔で生活できることが私の理想社会だと思っています。 私のHPでも訴えていますが、父子家庭は母子家庭に比べ社会保障や優遇措置が少ないのが現状で・・・。助成金などの優遇はほとんどありません。母子の貴重な収入源である「児童扶養手当」は父子はもらえません。もらえる市町村もありますが、ほんのわずかです。私より苦労(精神面・経済面で)されている方がたくさんいます。なんとか社会環境を見直していきたいと考えています。増え続ける父子家庭や母子家庭の精神面的なものだけでも手助けしたいというのが私の今の夢でもあります。 『おかしいんじゃない?社会環境』 http://www2.shogo.com/yoshikatsu/miri/seido.htm 『父子・母子必見のおすすめリンク』 http://www2.shogo.com/yoshikatsu/miri/rinku.htm ※娘日記に中谷さんの写真も飾っておきました! http://www2.shogo.com/yoshikatsu/miri/miri.htm ![]() ![]() |
ハンドルネーム クレヨンさん(6)読み聞かせで印象に残っている本 ○14ひきのシリーズ おじいちゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさん、こどもたち10匹の、自然の中で、自然とともにくらしている、ねずみ家族のお話。現在11冊。読みやすくて聞きやすい文と、その場その場の、空気、温度、湿度、声、音、匂いが感じられてしまう絵がすてき。 ○ノンタンシリーズ ストーリーは単純明快。繰り返される言葉のリズムも楽しいが、読んでいるとどうしても、平野文(ナレーター)とか、千秋(ノンタン)のような口調になってしまう。親である自分のほうがテレビやビデオに影響されているなあ。びびでなばびでな! ○ぐりとぐらシリーズ もう2世代にわたって読み伝えられている、ロングセラー。2匹のねずみの受け答えと、そこから新しく生まれてくる知恵と行動が楽しい。 ぼくらのなまえは ぐりとぐら この世でいちばん 好きなのは おりょうりすること たべること ぐり ぐら ぐり ぐら 妻はこれにメロディをつけて読んでいた。(添付画像) ○幼児向け月刊誌 テレビアニメをベースにしたマンガを、字の読めないコドモに代わって、親が読むハメになる。吹き出しのセリフ(例:月に代わっておしおきよ!)と、ト書き(例:うさぎはセーラームーンに変身しました)と、擬音(シャキーン!バババババ!)とが1コマの中に、順不同、渾然一体。じつに読みにくい。一体読者を誰として想定しているのだろう?実は超特大付録がメインで、本誌自体はオマケなのかもしれない。 ![]() |
ハンドルネーム クレヨンさん(5)2002年7月2日 私がワールドカップサッカー大会札幌招致の仕事をしたのは10年前。 市民2万人以上の署名を背景に、立候補書類や開催計画書、議会説明資料の作成、招致負担金の支払い、競技場の新設構想などのプランニングに参画していた。 1992年当時の日記を見ると、 7月8日 Wカップ入場者数等の推計 7月9日 競技場建設候補地の協議に緑化推進部へ 7月15日 9月提出のWカップ開催基本構想の調査事項まとめ などと記されている。 青少年への夢と希望、経済波及効果など、イベント開催にあたっての決まり文句のような「意義」を書類上には書いていたが、携わっていたスタッフは、これよりやや違った意味を、この大会の招致に抱いていた。 その1つは、冬の都市さっぽろという固定観念からの脱却であった。冬季オリンピック大会の開催からすでに20年を経過していたこともあったが、冬の都市というアイデンティティを持ちながらも夏の競技も開催可能であるということが、札幌の世界への窓を広げるだろうと考えた。 2つめは、サッカーという競技が持つ世界の共通語としての可能性への期待があった。この当時はJリーグが誕生したばかりで、世の中は野球こそメイン、サッカーなど日本人の国民性に合わないという雰囲気だった。しかし、サミットでは、欧米各国の首脳がサッカーの話で盛り上がっているときに、わが国の首脳だけが話に入っていけないという状況であった。 札幌は冬の都市なのだ、日本のスポーツは野球だ、などという従来型の、そしてオヤジ型のドグマティックな雰囲気から開放されなければ、何が「次代を担う青少年に夢と希望」か!?というやや反抗的な思いが、当時のスタッフの原動力にあったように思う。 数学が得意じゃなくても、野球がヘタでも、スキーやスケートが苦手でも、サッカーができるならばその子は認められていいじゃないか?いや、スポーツに何も得意な種目がなくても、国内外の人たちをお迎えする優しさがあるならば、その子は大いに認められていいじゃないか?それだけではなく、いろいろな国の人と話をするときに、共通の話題ができるじゃないか? Jリーグチームの札幌への誘致・創出も、流行りすたりやミーハーのノリでするのではない、オール5が評価されるのは東京でいい、札幌は、いろいろな才能を秘めた子がいろいろな場面で花開くことができる街であってほしい・・・そんな思いを抱きながら仕事をしていたように思う。 今回の大会も、いよいよベスト4が出揃った。FIFAからのチケット送付の遅れ、多量の空席の発生など、直前まで息詰まるような開催だった。担当されてきた方々には、本当に頭が下がる。 これまで取り組んでこられたこうした方々のおかげで、札幌の子供たちは、きっと多くのことを感じ、学び、またほかの国々の人々にも、将来の子供たちにも、多くのことを語っていけるのだろうと思う。(2002.6.24) |
ハンドルネーム クレヨンさん(4)2002年5月23日 「男女共同参画型社会を」と声高にいう人に、問いたいことがいくつかあります。 その1つは、自分自身を別の世界に置いた、評論家的な見方をしていませんか?という点です。理屈や理想像に、自分自身を含めた現実とを重ね合わせてみたとき、いかにそれが複雑で困難な課題であるのかがわかると思います。 たとえば「母親の子育て負担が重い、父親がもっと家事・育児に積極的になるべきだ」という意見をよく目にします。ではそう主張する方は「学校を卒業したら、男はちゃんと仕事につくものだ。それがフツウなのだ」という思いなど一度も持ったことがないと自信を持っていえるのでしょうか。また自分の子が男の子であったとき「男のくせに」とか「女々しい」とかといって叱ったことは一度もないでしょうか。もしも男の子であるわが子が「バレエを習いたい」「少女漫画家になりたい」といったとき否定的態度はとらないのでしょうか。 男女共同参画型社会を目指すとはいえ、日本はまだまだオトコ型社会です。それはいまのオトコだけが改革すべき意識なのではなく、男女を問わず何世代にもわたってじわじわと培われてきた文化的意識の現われ方です。「亭主元気で留守がいい」というコピーが受けるというのもそうだと思います。 そうした文化の中に自分自身も置かれており、自分自身の行動・言動ひとつひとつが文化の構成要因となっているという事実を省みなければ、「男女協同参画型社会」は単なる学問の中の議論に終始してしまうと思います。 2つめは、社会の論理と家庭の論理とをごちゃまぜにしていませんか?という点です。 たとえば、子供が熱を出して仕事を休みます。年がら年中カゼをひいてしまうような乳幼児の時期にはどうしても休みがちになってしまいます。仕事の世界では、そういう人の仕事の信頼性は低下します。それは少子化対策があろうとなかろうと、また男女協同参画型社会であろうとなかろうと同じではないかと思います。 いやいや、そもそも男も女も社会の論理の中に組み込まれていくことはおかしいのだ、社会は子育てに愛情を注ぐべきなのだという論の立て方もよく目にしますが、では、仕事を中断せざるを得なかったために契約の納期に間に合わなかったということで相手先の事業がうまくいかなかったとかということに対しては、あるべき論だけで、具体的にどう責任をとれるのでしょうか。そうしたリアルな部分を捨象してしまっては、「男女協同参画型社会」は空論に過ぎない、なんら力のないものになってしまいます。 私は共働き14年目、コブ付共働き11年目。子供が小学校高学年になって、ゆとりがようやく生まれてきたというのが最近です。いま振り返れば、子供の急な発熱で、ずいぶんと仕事を休みました。保育園のお迎えで、残業したくてもできない、飲み会があっても行けない状態が長い間続きました。 たしかに私に対する仕事への信頼性は落ち、交友関係も狭まりました。ですから私個人の社会的関わりの面からは「損」をしてきたといえるでしょう。しかし、共働き子育てを通じて獲得したものをあれこれ考えるとオツリがくるほどのものがあります。しかもこの間の「損」はこれから取り返しがつくものです。 可視的な部分の損得勘定をもとにして社会変革の必要性を叫ぶ「少子化対策」よりも、自分自身のライフスタイルや文化的意識はどうなの?自分自身は子供をどう思うの?という問いを含むもののほうが、問題の核心により近く迫っているのではないかと思います。 |
ハンドルネーム クレヨンさん(3)先月、ムスメが10歳の誕生日を迎えた。 生まれた当時に密かにつづっていた日記を引っ張り出して,10年前を振り返ってみた。 例えば以下のような内容である。 ―♪―♪―♪―♪―♪―♪―♪―♪―♪―♪―♪―♪ 7月7日 (生後108日目) 晴 最高気温30.6℃。真夏日 ムスメは最近,パパに愛想がない。ママには,に〜っと笑うのに。 生まれてからもう60回以上は一緒にフロに入って,体をきれいにしているのに,なぜか,むっつりしている。ど〜もハリアイがない。 ママは,友達が近所にできないので淋しがっている。社交的なママにとっては耐えがたいことだ。非社交的なパパでさえ約5時間ムスメと2人きりになって淋しくなったことからも想像できる。4ケ月がすぎたら,みんなで街に繰り出せることだろう。 ママに,感謝とねぎらいの言葉を贈りたい。 ―♪―♪―♪―♪―♪―♪―♪―♪―♪―♪―♪―♪ 面と向かってはとても言えないような,照れくさい内容だ。 方々で「男女協同参画社会」のスローガンが掲げられている。だが,まだまだオトコ型社会であるというのが現実だ。 オトコ型社会とは,日本にサラリーマン的ライフスタイルが定着して以来、多世代にわたって培われてきた文化である。 そんな中で「家事育児に協力しない」と,夫ばかりが責めたてられるような状況にはいささか戸惑いを感じてしまう。 たしかに,「男女協同参画社会」に半歩でも一歩でも近づくには,一人ひとりが意識を強くもつことが必要なのだろうが,オトコ型社会にどっぷり浸かってきた上司・センパイに対して,「あなた方の意識は古い!」など言えない状況であるというのもこれまた厳しい現実なのである。 しかし,コドモを持ったパパの殆どは,引用した日記のような気持ちを,多かれ少なかれ抱いているのだと,私は思っている。 |
ハンドルネーム ラブラブパパ2号一つ一つの娘のしぐさには成長がある。 これがまた、自分の日々の励みにもなっている。 今でも、妻にばかり負担をかけているけれど、 僕は、子育ての「つらさ」より「楽しさ」の方が増えてきた。 |
「絵本っていいなぁ〜」 1才7ヶ月の娘が僕の膝の上にチョコンとおっちゃんこ。 僕は1冊の絵本『赤ちゃんに贈る絵本1』を手にする。娘のお気に入りの一冊です。 それから『きんぎょがにげた』もお気に入り。(本当に図書館さまさまです) 僕「はな」娘「☆なっ」次のページをめくる。「ねこ」「☆こっ」「うさぎ」「☆ぎっ」 (娘は身体でリズムをとりながら楽しそう) 「とり」「とぉりぃ」「さかな」「ごっこぉ」「くつ」「くぅくぅ」 「さる」「イヤイヤ〜」(なぜか、さるは大嫌い。) 「いちご」「いちぃ」(大好きな苺をつまんで口元へパックとし、「ぱぁぱぁ」と僕の口にも。( (僕はデレデレ状態。) 「もくば」「ぱっかぱっかぱっか」「じどうしゃ」「ブーブー」 「にんぎょう」「かぁーい(可愛い)」(手をひらひらし、僕に「ひなまつり」を歌うようにせがむ)僕の美声?に合わせて娘は身体を横にゆらゆら。 僕は、娘の姿をみながら「可愛いなぁー、幸せだなぁー」と思う。 次のページをめくる。 「めがね」「・・・!」 僕を指差し「ぱぁぱぁ」娘は僕の眼鏡を強引に顔からはずし取る。 数分後、「ねんね、ねんねぇ」と言いながら眠りについた。 娘の寝顔を見ながら「娘も一人の人間なんだ、俺と対等なんだ」とつくづく思う。 日々の暮らしの中で、たまに、ちょっと憎たらしいと思うこともある。 娘は寝付くまで僕が横にいないと寝ないこととか(これって、でも幸せなことですよねー)心では分かっているつもり・・・。 最近はコップやお碗の中身を逆さまにして、ジャーとするのが"マイブーム"。 でも、娘の笑顔を見るとすぐデレデレになる。妻にも「あまい」とよく言われる。 一緒に唄ったり、踊ったり、ぎゅっと抱きしめてあげたり。甘やかすのは出来るけど、 いざ、叱るとなると・・・。中谷さん、娘への叱り方って難しいですね。 あっ、そうだ!僕が絵本を読んであげるのは週に2、3回あるかといったところ。 いつもこんな微笑ましいものではありません。つい最近なんか、妻と大喧嘩したばかり。 (この頃は二人とも気持ちに少しゆとりができ、元気になり、手や足がでることも・・・) 普段は、仕事から帰ってきたら殆ど妻任せ。時間が間に合えばお風呂は入れるくらい。 寅さんじゃないけれど、男(夫)もつらい世の中になりました。 そんな訳で?全国の悩んでいるお父さん、パパキチリレーしませんか? |
ハンドルネーム クレヨンさん(2)妻 「結婚したとき,こんなにコドモを可愛がるヒトだとは思わなかったよ」 私 「そうだよね。だいたい,コドモって,嫌いだったしね」 妻 「ワタシはコドモがキライです,って歌,あったね。伊武雅刀?」 私 「キライ,というか,うーん…恐かったね。コドモ」 妻 「恐い?」 私 「うん。あの,濁りのない透き通った目でじーっと見つめられたりするじゃない。そうされると,自分の本質みたいなところを見透かされているような感じがしてさ。すると,もう,わー,ごめんなさい,オレが悪かったー,勘弁してー,という感覚になっちゃって」 妻 「ぷぷ」 私 「でもさ,自分のコドモ見てたらさ,なあーんだ,コイツ、何も考えてないじゃんって」 妻 「そんなことないよ。生まれたてのアカチャンだって,ちゃーんと,いろいろ,いっぱい,感じ取ってるんだから」 私 「そこを勘違いしてたんだよね。いっぱい感じて,いっぱい吸収しているのがコドモなんだよね。じーっと見つめながらね。それを昔は,あのつぶらな瞳の奥に『コノヒト,ナニカ,ヨクナイコト,カンガエテイルニ,チガイナイ』など考えているに違いないと思い込んでた」 妻 「そんな自分のこと,バカみたいに思わない?今考えると」 私 「今はさ,自分の子以外のコドモも,みんな可愛いと思う」 妻 「そういえば,地下鉄とかでたまたま隣に座ったコドモとかアカチャンにも,よく愛想振りまいてるよね。あんまりやるとヘンなオジサンだけど」 私 「そんなオジサンって,見たことないよね」 妻 「女のヒトだと,歳関係なく,他人のアカチャンにベロベロバーしても,そんなにヘンじゃない」 私 「たまに,ミニモニのブロマイドを,一緒に探してみたりするけどさ。自分のコドモと一緒であるとはいえ,オジサンが真剣に探している姿って,客観的にみるとヘンだよね」 妻 「うーん。かなりヘンかも…」 私 「それが,一緒なのがお父さんじゃなくって,お母さんなら,絵になるんだよ」 妻 「男のヒトは,コドモの世界とは一線を画すのだ,というのが,もしかして,世間一般の感覚なのかもね。ワタシは保育園にいるからさ,お父さんのお迎え姿とかを普段から自然に見てるから,逆な感じはする」 私 「世間がもしそんなのだったら,コドモがキライです,という感覚って,オレのほかにも,実際,意外に,多くあったりするんじゃないか?」 妻 「そうかなあ…」 私 「例えばね,町内会の施設にコドモの施設が隣り合っているところがあってね。コドモの施設の側に町内会の役員さんから苦情が来るんだって。うるさくて会議ができない,何とかしろ,しなきゃ別の建物に移れって」 妻 「コドモって,本来,うるさいものなのにね」 私 「そうだよね。うるさいし,自己中心的だし,無計画なのがコドモなんだっていうことを忘れているんだよね,きっと」 妻 「静かにすべき,他人のことを考えるべき、計画性を持つべき、というのは,教育で身につくものでしょ。同じ町の子のことを自分たちで直接教育しないでコドモの施設に文句言うって,それって何のための町内会?」 私 「その町内会の役員さんに限らないでもさ,ナマのコドモにちゃんと向かい合わなきゃ,コドモに対してヘンな思い込みをしちゃうのって,あるんだろうね,きっと」 妻 「それって,昔の自分のこと,正当化してない?」 |
ハンドルネーム 吉克さんプロフィールは、下のホームページを見ていただけると助かります。 育児方針としては、 とにかくやりたいことはやれ!のびのび遊べ!寝るときは大の字で! の3本です。 子供と遊ぶのがとにかく大好き。土日は砂遊び、ソリ滑りが中心。 夜は絵本を読んであげます。 最近のお気に入りは「さるかにばなし」「シンデレラ」。 「シンデレラ」は私が王子になって演劇風にやています。(ふざけてるけど) 夢は・・・子供と一緒に世界中の山を登ってみたいことかな。(無理かな?) できればウインブルドン出場またはピアニストになってほしいなあ。 どんなにつらい時でも子供の寝顔見れば安らぎますよ!新米パパにエールです。 ホームページ:http://www2.shogo.com/yoshikatsu/ (内容:山岳ニュース、低山日記、写真展など) |
| 心の豊かさ 託児所から帰ってきた、愛娘ミリー(漢字で書くと美莉)が、しょんぼりしている。 聞いてみると、お父さんへの誕生日プレゼントをどこかに落としたらしい。 さっそく強風の暗闇の中、探しに行く。 「ここらへんか?」「ずうっとあっち」 「もう託児所につくべや!・・・」「あ!」 なにかプレゼントらしいものを車道で発見。 なにかが車道の轍の中に埋もれていた。 ここ数日暖かいせいか道路もベチョベチョだ。 取り出してみると「お父さんへ」と書かれたプレゼントだった。自宅に戻り空けてみると・・ 紙粘土で作った鉛筆立てだった。 形も崩れていて、何がなんだか分からない物であったが、ただ一生懸命僕のために作っ てくれたことが嬉しかった。 が!ミリーはうつむいたまま悲しそう・・・。 「よし!作り直そう!」紙粘土をお湯で湿らせ復元作業に取り掛かる。 「色はこんな色か?」 「そうピンク」 「ここは青?」「そう」 乾燥させてニスを塗り立派な鉛筆立てが深夜復元した。」 「うあ!お父さん明日から仕事で使えるよ!」 涙ぐむ私・・・。(泣き虫パパ) 一週間前、自転車の形をしたお気に入り鉛筆立てを子供に壊され 「お父さん壊しちゃったから、今度つくってあげるね」 と言っていたが、こんな小さな子が心のどこかで気にしてくれていたのが嬉しかった。 誕生日には一日遅れたが彼女なりの素敵なプレゼントだった。 また、目的を持ち一緒になにかをすることこそが親子の絆を深め、心の豊かな子供に成 長していくんじゃないかなあと感じてしまった。 |
ハンドルネーム クレヨンさん札幌市厚別区在住。1962年生まれ。血液型AB。札幌市役所勤務。 保育士歴20年の妻と娘1人との3人家族。 |
| 娘は小学4年生。つい8年ほど前までは「うー」とか「あいー」とかしか発することができなかったのに、いまでは未熟ながらもそれなりの理屈を立て、イッパシのことを言うようになり、口ごたえまでするようになった。 そんな娘に妻は、 「何なのその言い方!生意気なんだから!」と怒る。 見ていると、それはまるで姉妹げんかのようである。10歳に満たないコドモに対してなんでそんなにムキになれるのか? コトの当事者でないはずの私に、 「ねえパパ、そう思わない?」と、参加と同意を求めてくる妻。 「なぁ、そんなにタイはって怒るなよー」ボソボソっと私は言う。すると、 「甘いんだから!!」 矛先はこちらに向けられてしまう。 保育士である妻には、発達心理学や児童心理など専門の知見が備わっている(に違いない)。しかし、妻は、娘に対して、そうした理論で武装して向き合っているわけではない。かくあるべきというマニュアル本や教科書どおりのことを演じているわけではない。このときの妻は妻自身の姿であり、娘とは生身の人間同士の関係でいる。 一方、妻から甘い父親と断定されてしまった私は、 「もう4年生なんだから、そんなことくらい、分かるはずだろう!」と娘に諭すのだが、どこか説明口調で理屈っぽい。ストレートでない。娘と生身で向き合っている妻が羨ましくもある。 この態度の差というのは、一体、何から生まれるのだろうか。 自分の子供が自分自身の分身だという感覚が、母親である妻自身のどこかに潜んでいるような気がする。娘自身も、遠い昔、小さなからだ一杯で感じていたおっぱいの香りを、妻に対して感じているに違いない。これはもう理屈の世界ではない。 父親は、自分の子であるということを、皮膚感覚ではなく、アタマで理解している。いや、そうせざるを得ない。私が娘を産んでいないということは厳然とした事実であるし、これから先も、産むという行為は体験できない(だろう)。 小学生以降の子供の父親ができることといえば、友だちや社会への関わり方はこうあるべきなのだ、孤独にはこのように耐えよ、ビデオのタイマー録画とはこのようにするのだ、などを教えるくらいのものだろう。 こうして考えると、真に甘えている関係がどちらにあるのかは歴然としていて、私は妻から「パパは甘い」などと糾弾されるべくもないはずである。 保育士である妻は、時折、ついつい子供に怒ってしまうのだがどうしたらよいか、といった相談を受けるそうだ。相手の家庭環境にもよるが、怒らないとお母さんが窮屈になり、お母さん自身が辛いだろう、そうした母親の微妙な態度に子供は敏感に反応するものだ、と応えたりする、という。 その話を聞いた私は、娘に対しては姉妹げんかのように生身で向き合っていながらも、理屈のバックボーンはきちんと蓄えている妻に、尊敬の念を覚えた。 また、甘えている、甘えられているという関係が許されてあることこそが、家族の基本なのだよなあとあらためて感じたのだった。 |