うすくつながって生きる

「仕事のなかの曖昧な不安」(中央公論新社)という本を書いたところ、思いもかけず、たくさんの反響をいただいた。
若者に広がる失業や転職の増加について、それは働く意識の弱まりのためでなく、中高年の雇用維持を最優先させてきた社会の結果であることをデータから述べたものだった。

その内容には、賛成意見として「だから中高年をもっとクビにすべきなのだ」という物騒なものもあれば、「そうはいっても最近の若者は挨拶もろくにできないじゃないか」という反対意見も相変わらずあった。
しかしながら、いただいた意見や感想のなかでもっとも多く寄せられたのは、それらとはまったく異質のものだった。深刻な雇用状況のなか、よりよく仕事をするためには、たまにしか会えないけれども信頼し続けられる友人や知人を一人でも多く持つことだ、という本の結論に対する驚くほどの反響だった。

幅広い人間関係の形成が特に転職にとって重要なことを指摘したのは、アメリカの社会学者グラノヴェターである。黒人社会が白人社会にくらべて厳しい経済状況にある背景として、黒人同士の関係が「いつも会う人間」から成り、「まれにしか会わない人間」が存在しないことに、グラノヴェターは注目した。いつも会う人間からは安心感は得られる。しかし、自分の価値観を強く揺さぶってみたり、思いがけない可能性を感じさせてくれる機会は、自分と異なる日常を生きる、まれにしか会わない人間からしか得られない。
グラノヴェターは、たまにしか会わないが互いに信頼を置く人間同士が形成する、うすいけれどもつながった関係を「ウィークタイズ」と呼んだ。よりよく生きる上でのウィークタイズの重要性は、なにも黒人社会だけの問題ではない。日本社会も同じなのだ。

いや、もしかしたら現在の日本人にこそ、このウィークタイズは必要なのかもしれない。転職の時代といわれながらも、結局は同じ会社に働き続け、飲み仲間もやっぱり会社の同僚、平日は会社と家の往復、休日は疲れて家で寝ているだけという生活は、ウィークタイズと正反対の、ストロングタイズそのものである。そんな生活から卒業しなきゃいけないと思いつつも、一体、自分に何ができるのかが、わからない。もっと深刻なのは、自分は本当に何がしたいのかが、わからない。
自分にやりたいことがないという不安は、若者のあいだにもっと根深い。夢を持て、希望を持てという大人の声は、応援というよりただのプレッシャーでしかない。かつての若者と違い、現在の若者には情報がたくさんある。新聞やニュースのわずかな報道からは、長嶋に憧れ、プロ野球選手を夢見ることができた。現在のハイビジョン衛星放送は、自分はイチローにはなれないことを鮮明に明らかにしてしまう。
世界につながるはずのインターネットも、結局、多くの若者がケータイでつながっているのは、ほぼ毎日のようにメールするごく少数のストロングタイズな友だちなのだ。

ストロングタイズは確かに安心を与えてくれる。ただ同時にそれだけではいけないと、みんなどこかで感じている。よりよく仕事するには、ウィークタイズがどうしても必要になる。真のビジネスチャンス、日常のなかの非日常は、うすいけれど、信頼によってつながれた関係のなかから現れる。

日本人がより良く生きるとは、できるだけ多くの人がウィークタイズを持つことだろうと私は思っている。フリーターと呼ばれる若者でも、リストラにあった中高年でも、そこから抜け出せないのは、幅広い人間関係を持たず、孤独な状況に置かれている人々だ。

うすくつながった関係を皆がもっと持つべきだという私のような意見には、反論もある。ウィークタイズは誰でも持てるわけではない。社会的に恵まれた状況にある人だけの特権であると。学生は言った。「ウィークタイズをつくろうと努力をしているんですが、なかなかうまくいかないんです。ウィークタイズには、おカネと時間がいるんです」。

幅広い人間関係を持つことは、転職だけでなく、独立の武器でもある。独立をしたいという人々の相談に乗る、インキュベーターと呼ばれる或る専門家は、希望者にこう語りかける。「開業に関心があるのならば、小学校の同窓会に出てみてはどうですか」。
小学校の同窓生には、大学や高校とは違い、さまざまな職業に就いている人々がいる。自分とまったく違った日常のなかで働いていたり、開業したりしている。その意味では「遠い」存在である。しかし、同じ小学校の出身ということで、なんともいえないつながりや信頼感も感じられる、「近い」存在でも同時にある。この遠くて近い存在から、「自分にも可能性があるかもしれない」と実感したり、「自分の思っていた独立は幻想だった」と率直に認めることができるのだ。

同窓会に限らず、これまでの取引先や交渉相手とのうすくて長いつきあいなど、日本のウィークタイズの源泉は、恵まれた人間だけのものではないと、私は思う。むしろ血縁など、本人の努力を伴わない人間関係は、結局、転職や独立を有利に運ぶ効果など、もう持ってはいない。

うすくてひろい関係には、おカネと時間がかかる。しかしそれよりもっと大変なことがある。自分と近いが遠い非日常の人々に、自分の日常を、けっして自慢でなく、かといって卑下でもなく、自分の言葉で語る必要が自然と出てくるからだ。「自分は、どう生き、どう仕事をしてきたか」を簡潔に、下手でもいいから(いや本当は下手なほうがもっといい)、日ごろから考えていないと、その言葉は出てこない。
人と人をうすいけれども切れずにつなげてくれるのは、結局、言葉でしかない。自分から言葉を発しようとしなければ、言葉は返ってこない。そして返ってきた言葉に心を空しくして耳を澄ます。そこには自分の限界と可能性について、思いがけず気付かせてくれる、日常のなかの非日常が隠れている。