多様化の「化」


「普通は…」といった言葉が平気で用いられる会議やミーティングの結論には、ロクなものがない。そこにはすでに特定の固定的なモノの見方や判断が共有されてしまっているからだ。むしろ何ごとも普通とは考えず、多様で異質な意見や考え方を公正に評価してこそ、組織に創造力が生まれるものだ。

無論、多様であることが、つねにいいことではないかもしれない。ときには同質の強さや安心感も大切だろう。しかし現在の企業や雇用の危機を克服しようとする試みの停滞には、中高年の正社員男性の「普通」から逃れられないことが背後にある。だからこそ、多様化する若者の意識や価値観への期待が広がることになる。

だが、そのような従業員の多様化が若手社員を中心に広がっているという見方が、私にはどうも府に落ちない。たしかに正社員以外に、派遣社員やフリーターなど、多様な就業スタイルは登場してきているものの、多くの若者の意識や行動は本当にそれほど多彩なものだろうか。

若手社員の集まる人事に関する勉強会に参加しても、議論は案外、同じようなところに行き着いてしまう。「将来がみえない」、「やりがいがない」、「自己責任は大切だ」、「成果主義は評価の曖昧なことがよくない」、…。それはその通りだ。ただ、それらの問題に対して「あなたはどうしたいのか」となると、明確な言葉は返ってこないのは、若年も中高年も同じなのだ。一朝一夕では解決しないこれらの難題に対してでも、自分なりに考えを持ち、何らかの行動する若者が増えてこそ、真の意味での多様化だろう。

 会社で働く若者の意識が本当には多様化しておらず、「普通」に束縛されていることが多いにしても、彼ら、彼女らに責があるわけではない。収入減の可能性や長時間労働など、厳しく不透明な状況のなかでは、本心では安定を求めたいとする傾向が強まるのは無理からぬことだ。世界がつながるインターネットでも、結局は同じホームページやメールメディアを見、ごく限られた人間とだけメールをする。同じ価値観の共有を確かめ合うだけなのだとしても、それはそれで多様な情報と選択肢のなかで迷子にならない知恵でもある。

 しかし一方で、組織と社員の将来を本気で考えている企業が、真に多様な人材を求めているのは事実である。一部の企業が多様な人材を活かす戦略を「ダイバーシティ」と定義し、その取り組みを進めていこうとしているのを、私は本気と考える(日経連ダイバーシティ・ワーク・ルール研究会、2002年)。
ダイバーシティの本質は、人材の可能性に関する絶対的な肯定主義にある。一見、理解できないものも、とにかく受け入れてみる、チャンスを与えてみる、任せてみることである。

 だとすれば、ダイバーシティを模索する企業は、若者は多様であるということを前提に考えるのでははく、むしろ若者を多様な人材に創り上げたいと考えるべきだ。無難な人材だけでなく化(ば)けそうな人材を求め、そして仕事のなかで実際に化(ば)けさせてこそ、組織の創造力となる若者の多様化は実現する。
 そのためには、逆説的ではあるが、企業として明確に決められた人事観を確立し、社員と共有することが必要になる。多様性はバラバラとは違う。社員が組織に対して共感し、個人がその共感を前提としながら状況に応じて、自分を表現し行動する。本当の多様化は、そういう企業にしか生まれない。

ダイバーシティを進行中のある企業では、社員の行動や考えをルール(規則)によって制限することをやめ、プリンシプル(原理)で判断するように努めるという。出張の際、新幹線の「のぞみ」に乗れるかは、乗ってはいけないというルールで決めるのではなく、乗る必要という個人の状況が、プリンシプルから見て共感できるかで決めるというのだ。

 企業に人材や人事の明確なビジョンがあって社員が共感できれば、それに応じてある人は新幹線に乗ろうとするだろうし、ある人は飛行機に乗り、ある人は出張をしないことを選ぶようになる。結局のところ、若者の意識が多様化するかは、経営トップ、上司、人事部などに、社員の共感を引き出す力の有無によって決まる。

「ポジティブ・アクション」は、性別による事実上の差を取り除く企業の行動であり、個々の社員の多様性を引き出す手段の一つである。ポジティブ・アクションの秘訣は、その実現に向けた経営トップの決断、全社一丸的なプロジェクトチームの立ち上げ、そして明確でわかりやすい目標を会社が独自に持つことにある。

 ダイバーシティ・ワーク・ルール研究会の報告書のタイトルは『原点回帰』だという。ダイバーシティであれ、ポジティブ・アクションであれ、社員の共感を求めて多様性を創造しようとする取り組みは、たしかに企業の原点への回帰なのかもしれない。その意味で、これらは何も欧米の輸入などではなく、日本のなかの古くて新しい取り組みなのである。