2002年12月10日

働くことの悲しさ


フリーターをこれまで長年調査し続けてきた教育社会学者を中心とする研究グループが一冊の本を刊行した。そのタイトルは『自由の代償/フリーター−現代若者の就業意識と行動』(小杉礼子編・日本労働研究機構)という。

『自由の代償』はフリーターを含む若者へ詳細なアンケートとインタビューから構成されている。それを読むと、フリーターの特徴とは「やりたいこと」志向の強さにあることがわかる。フリーターをそうでない若者と比べると、「若いうちは仕事よりもやりたいことを優先させたい」とか、「やりたい仕事なら正社員でもフリーターでもこだわらない」と答える割合がきわめて高い。やりたいことがみつかって、はじめて本気で働こうという気持ちが生まれるというのだ。

たしかに学校を卒業もしくは中退して働き出すと、なかでも会社勤めなんて始めると、やりたくことないことだらけの毎日である。正社員でも、アルバイトでも、パートタイムでも、派遣でも、やりたくないことどころか、イヤなことは、山ほどある。
無理なノルマ、長時間のサービス残業、セクハラまがいの扱い。まわりに抑うつ症状の人たち。不況のなか、どんどん高まる不安感や緊張感。わずかな給料では「やってられない」現実。成果を挙げれば給料は上がるというが、多くの人の給与は働いても、働いてもほとんど上がらない。サービス残業はすればするほど、実際の時給を下げていく。

会社の正社員になって働くとなれば、学生時代に比べると、イヤなことがまちがいなく100倍は増える。働くことが楽しい、充実している、なんていえる人は、ごく一握りしかない。シンドイ就活(就職活動)は、何のためにしたんだろうと、思いたくもなる。

だから、なぜ働かないといけないのか、特に正社員なんて、なぜならないといけないのか、ときかれれば、ハッキリとした答えなんてないというのが、本当ではないだろうか。

しかしだからといって働かないことを選択すれば、そのうちかならず飽きてくるのも事実だ。やりたいことをやりたくてフリーターをしていても、結局はやりたいことなんてみつからない。むしろフリーターは2年以上続けると、やめたくなっても抜け出せなくなるというのが現実である。

働くことには、そのほとんどがやりたくないことだという悲しさがある。それと同時に、もう一つ別の、そしてもっと深い悲しさが働くことにはつきまとう。
それは、自分には能力がないのだという圧倒的な現実を思い知らされることである。

学生時代には試験でも部活動でも、なんらかのかたちで自分の実力を評価される。学校を出てから働かないことを選択すれば、社会のなかでの自分の能力の低さに直面する機会に会わなくてもすむ。ところが働くとそうはいかない。
働けば、自分の能力の限界という不幸をつねに感じる。仕事がうまくいかないのは、場合によってはまわりのせいでもあるが、結局はほとんどの場合、自分の実力がないからだという否定しようのない事実を、ほとんどの人がつきつけられる。職探しをすれば、一部の例外的な人を除いて、能力の足りなさから「残念ながらわが社とはご縁がありませんでした」といわれてしまう。

働くと、能力がないことを自分自身で知ると同時に、力を発揮したときでもそれを正確に認められず、満足のいかない評価にさらされなければならないときだってある。自分は自信をもってやった仕事なのに正確に評価されないことが続けば、本当は自分の能力がないのではないかと、追い詰められた気分にもなってくる。
働かなければ、そんな自分の無能の感覚を持たなくてもすむ。働くなんて、バカらしいではないか。そこまでして働く必要なんてどこにあるというのか。

しかし、働いて自分に能力のない不幸を実感したことのない人こそ、本当に不幸である。自分の無能の現実を知らないで生きることの空しさ、その空しさのなかでジタバタする、言葉にならない感覚を、働くことを拒否した人は知ることはできない。能力の限界に向かい合いながら、なんとかつらい仕事を仲間と仕上げ、その後でみんなで「やれやれ」と飲むビールやワインの味は、仕事をせず、日がな一日ボーッと暮らして飲むときとは比べものにならない。

そして自分の力の限界を知る人だけが、働くなかで自分以外の力によって何かが成し遂げられる瞬間があることを知る。その自分以外の力は、多くの場合、自分のまったく予想していなかった偶然というかたちでしか訪れてくれない。
しかし、働くことのなかにある「偶然」をバカにしてはいけない。ほとんど偶然としか言いようがない、自分の能力を超えて何かが出来てしまった感覚。自分にとって、あまりにタイミングのいい偶然。それによって突然、自分の目の前が開けてしまう感覚。偶然という自分を超えた存在だけが、本当の自分の可能性を感じさせるのだ。働いてみないと、そんな偶然はやってこない。

内田樹氏は著書『期間限定の思想−「おじさん」的思考2』(晶文社)のなかで、仕事をするとは「他者を目指して、パスを出す」だと書く。たしかに働いていると、自分の目の前に奇跡のようなパスが出されることがある。それは別にジダンやフィーゴなど、スーパースターだらけのレアル・マドリードのサッカーでなくてもそうだ。パスを受けてシュートして、外してしまうことも多いのだが、決まることだってある。凄いパスを受けた感触が自分もいいパスを出したいという気持ちにつながっていく。

本当の自分の可能性なんて、自分自身は知らないと思ったほうがいい。経済学の理論モデルの多くは、働く本人は自分の能力や意欲を理解しているが、会社は理解していないという情報の非対称性を前提にする。しかし本当は、本人だって自分のことなんてまるっきりわかっちゃいない。日々の仕事のなかで痛感する現在の自分の限界や、ときにそれを乗り越えさせてくれる自分以外の何かに触れることだけによって、はじめて本当の自分、本当に自分がやりたいことが、うっすらと見えてくるものなのだ。

フリーターは、「やりたいことがみつからないと働けない」という。しかし、それはまちがっている。「働いてみないと本当にやりたいことはみつからない」のだ。
夏目漱石は『私の個人主義』と題された講演のなかでこう述べた。「自分の個性が発展できるような場所に尻を落ち着けるべき、自分とぴたりとあったしごとを発見するまで邁進しなければ一生の不幸である」。しごとに尻を落ち着けてみようとしないかぎり、ぴたりとあっているかはわからない。ぴたりとあった瞬間、はじめて自分の個性は何かがわかる。

 私は、仕事のささやかな悦びとは、回転寿司のようなものだと思っている。目の前に流れるネタはかならずしも自分が一番食べたいものではない。しかしときどき「おっ!」という皿が回ってくる。それにありつくには、まずは席に座っていなければならない。自分の前に回ってきたら、自分の意志で手を伸ばさないといけない。そして一度手に取った皿は返してはいけないのも、回転寿司のルールである。

 もちろん、一流の寿司屋のカウンターで注文しながら食べる寿司のような満足の高い仕事もあるだろう。しかし、回転寿司も実はなかなか案外にイケルのである。